12/3 ソワレ
12/17 マチネ
新国立劇場にて
あらすじ
1648年、ムガル帝国のアグラ。建設中のタージマハルの前。「建設期間中は誰もタージマハルを見てはならない」と、皇帝からのお達しがあった頃。
ついにタージマハルのお披露目の日の前日、夜通しで警備についている、フマーユーンとバーブル。二人は幼い頃からの親友であり、現在は軍に入隊をしている。警備中はタージマハルに背を向け、沈黙のまま直立不動でなくてはならない。だが、空想家のバーブルは黙っていられなくなり、律儀に立ち続けるフマーユーンに話しかけてしまう。
二人の会話はまるで『ゴドーを待ちながら』の二人のように、もしくは『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』の二人のように、とりとめのない言葉の応酬のようでありながら、二人の人間の差を描き出して行く。
やがて二人は、バーブルが不用意に発した一言を発端に、あまりにも理不尽で悲劇的な状況に追い込まれていく。その先にあるのは......。
キャスト
フマーユーン 成河
バーブル 亀田佳明
観劇から時間が経ってしまいましたがタージマハルの衛兵とても良かったです。胸糞の悪さと後味の悪さがとても良かった。観劇後はテンションが上がりすぎて危うく走り出すところでした。
インタビュー記事で「見せるのが難しい演目」だというお話が出ていたのですが、めちゃくちゃに上手く見せていたと思います。
全編通して見どころは沢山ありますが視覚的にはやはり2場の血に溢れたシーンが最高でしたね。舞台前方の床がスライドして無くなり一段下がったところに血が溜まっている。舞台セットがあのように動くことも驚きだったし、あんなにも沢山の血糊を見たのも初めてだったのでそれはそれはテンションが上がりました。その上舞台上で水(お湯?)を浴びるシーンもあり、水が大好きな管理人には至福の時間でした。
因みに使われた血糊は日本版では60リットル、韓国版は200リットルだそうです(プールかな?)
劇中で血を掃除するフマーユーンとバーブルを利用して実際に血糊を片付けてしまうところも非常に琴線に触れました。演劇最高。ものづくり最高。yesクリエイティブ。ありがとう絵梨子さん。
個人的には洗顔でメイクオフされ眉が無くなった成河さんが大変に宜しかったです。本演目の良いところはキリッと眉毛⇔ほわっと眉毛 前髪なし⇔前髪なしの成河さんを拝めるところですね。一度で二度おいしい。
演目自体は決してシリアスな雰囲気ではなく寧ろコメディーチックなのに「気がついたら取り返しのつかない所まで来てしまった」という感じでした。空気を読み雰囲気に流されて何気なく生きていたら取り返しのつかないことになっている。武器を取るタイミングを逃せば半永久的に搾取される。
現代日本に通ずるところが沢山あり耳が痛かったり頭が痛かったり心が痛かったりしました。内包しているものが多すぎて細かくはあげませんが「個と全」というテーマにこれほどあった演目はないんじゃないかと思います。
二人の設定「フマーユーンは自然美を愛し、バーブルは人工美を愛している」って神がかっていませんか?これを知った時心の中で叫びました。
お堅いフマーユーンと奔放なバーブルという印象なので一見真逆に見えますが、保守的なフマーユーンと革新的なバーブルと考えるとしっくり来る気がします。
人工美を愛し、ものづくりに憧れさえ持っているバーブルの両手を切り落とすことの罪深さ。対して両手を失っても生きていて欲しいと思うフマーユーン。そして逃れられない規則。四面楚歌。
バーブルが手を失った後の二人の関係が気になりますね。10年後を見る限り没交渉のような気がしますが、人々の手を切り落としたことにあれほど罪の意識を持っていたバーブルなら自死している可能性もありますよね。二人の腹の中が見えそうで見えないので人物象の構成が難しい。この見えそうで見えない感じ、人物にフォーカスせず距離を置いてくれる感じも普遍性に重きを置いたこの演目の良さではないでしょうか。
プレビューから本公演の間で変えたところが沢山あるそうなんですが、一番分かりやすいのは5場のフマーユーンの衣装でしたね。プレビュー時の赤い上衣に朱色の下衣の衣装が無くなりました。綺麗な色で好きな衣装だったのですが本公演の方が纏まりが出ていて良かったです。制服がボロボロになり「10年後の政権が変わった世界」というのも分かりやすくなっていたと思います。
バーブルの制服のヒモが少なくなったことも変更点ですが、2場の衣装はプレビューの時からバーブルだけヒモ無しでした?二人の服の違いで何かを表現しているのか、単に着替えやすさを重視しているのか…。
バーブルの汚れを洗い拭いて着替えさせるフマーユーンも良かったですね。何度もバーブルの名前を呼び、低音で宥めるように独り言のように子守唄のように紡がれる不思議なメロディーが魅力的でした。
セリフについて
フマーユーンの「大切なのは考えちゃいけないってことだ」というセリフが印象的で現在に至るまで反芻しています。対話において「考えないこと」が大切なことだと結論付けた直後にこの演目を観たので何を正とするべきなのか考えあぐねてしまいまして。
他者のアクションに対してそれが自分にとって快か不快かどうかなど精査する必要はないというか、世の中“山と言ったら川”のように反射でなされる会話がとても多いですよね。それは「常識」や「思いやり」と言い換えることもできるし「建前」や「ノリ」と呼ぶこともできるでしょうが、世の中がそれを是と言う限りそれに準ずる行動を取った方が生きやすさは上がります。決して「そんなもんでしょ」というひねた気持ちではなくあくまで前向きに考えてそこにリソースを割く必要性は低いのではないかというのが今のところの持論です。
「考える」ことで社会生活に支障をきたす管理人のような人間もいるので「考える」ことが必ずしも良いこととは限らないのではないかなどと…こんなことを言っているから国が衰退するのかな。
バーブルの「美を殺した。もう美はどこにもない」というセリフはマクベスの「眠りを殺した。もうマクベスに眠りはない」と関係あったりするのでしょうか。シェイクスピアに詳しい方がいたら教えてください。