いいえ、その日は舞台なので。

舞台へ通う金欠庶民の感想ブログ

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1/13 マチネ

シアタークリエにて

(Nチームを観劇)

 

<キャスト>Aチーム / Nチーム

ダイアナ:安蘭けい / 望海風斗
ゲイブ:海宝直人 / 甲斐翔真
ダン:岡田浩暉 / 渡辺大
ナタリー:昆夏美 / 屋比久知奈
ヘンリー:橋本良亮 / 大久保祥太郎
ドクター・マッデン:新納慎也 / 藤田玲

 

<東京公演>

シアタークリエ

2022年3月25日(金)~4月17日(日)

 

<兵庫公演>

兵庫県立芸術文化センター阪急 中ホール

2022年4月21日(木)~4月24日(日)

 

<愛知公演>

日本特殊陶業市民会館ビレッジホール

2022年4月29日(金・祝)

チケット一律12,000円

 

<あらすじ>

母、息子、娘、父親。普通に見える4人家族の朝の風景。

ダイアナの不自然な言動に、夫のダンは優しく愛情をもって接する。息子のゲイブとダイアナの会話は、ダンやナタリーの耳には届いていないように見える。ダイアナは長年、双極性障害を患っていた。娘のナタリーは親に反抗的で、クラスメートのヘンリーには家庭の悩みを打ち明けていた。

益々症状が悪化するダイアナのために、夫のダンは主治医を替えることにする。新任のドクター・マッデンはダイアナの病に寄り添い治療を進めていくが・・・。

 

管理人の舞台オタク人生で最もチケット難だった演目。平日も休日も無く申し込める先行は全て申し込みましたが一枚もチケットを手に入れられず(勿論一般も無理)

幸運にもチケットを譲っていただき観劇が叶いました。感謝です。

良い演目だったのですがあまりにも自分を重ねるところが多すぎて俺の物語か…??と思うほどなので感想は控えるつもりだったのですが、他の方の感想を見て自分が当たり前だと思っていたことが当たり前ではないのだなとしみじみ思ったので記録として残しておきます。感想なんてなんぼあっても良いですからね。いつ通りネタバレには配慮していないのでご注意ください。

 

 

総評

まず、この演目について言いたいことはメンタルヘルスとその周りの人間、世代間の連鎖まであまりにも解像度が高いということ。

それでいて当事者(管理人)が観ていても辛くならないほどに軽快で、しかし軽んじるものでは無いと言うこと。演目としての完成度がとても高いと感じました。

メンタルヘルス?何それ?という方には響かないかも知れないけれど、できれば軽快さや曲の良さ、セットの素晴らしさに流されず注意深く観てくれたら嬉しいと思う。

 

 

ダイアナ

ストーリーは精神疾患を抱えるダイアナを中心として展開します。

夫婦の間にはゲイブ、ナタリーという子供がいますが、ゲイブは生後八か月の時に腸閉塞で亡くなっており、劇中に登場するゲイブはダイアナの見る幻です。この幻によってダイアナは治療が必要だと判断されるわけですが、果たして治療は必要なのでしょうか。

 

このあたりの望海さん演技が絶妙。特別神経質でも特別粗暴でも無く、どことなく不思議な雰囲気があり、ダイアナの症状について「個性」なのか「病気」なのか判断が難しい。

管理人は「個性」として収まる範囲であると判断しました。観た限りだとに躁の症状や性欲の増大はあるものの日常生活に大きく問題をきたしているようには思えなかったし、いない人の誕生日を祝ったり誰もいない空間に話しかけているだけで何か問題なのでしょうか。本人が治療を望んでいるならまだしも、家族がダイアナを受け入れればそれで終わるような気がしました。まぁそれが最も困難な道であるので“家族”というのは厄介だなと思います。

 

ダイアナは病院へ連れられ投薬治療を行うのですが、正直投薬治療は実験でしかないんですよ。合う合わない効く効かないは個人差があるし、一方が良くなっても一方が悪くなるだけで「どちらの地獄を選ぶのか」という話でしかない。

様々な薬を試した結果「何も感じない」状態になったダイアナに医師は「これで問題なし」と言います。これは実際に管理人も言われたことがありますが、こんなものの何が治療なものかと思いますね。

家族は「問題ない」状態になった患者を見て安心するわけです。これで大人しくなったぞと。

躁鬱の症状について、患者は躁の時が良いと言い、家族は鬱の時が良いと言うのはあるあるなんですが、「何も感じない」状態で生きることの辛さは中々理解されませんね。

「何も感じない」と言っても辛さだけは感じるんです。コロナ禍の自粛・中止ラッシュを経験した今なら少し理解していただけると思うのですが、「楽しみが何もない状態」がずっっっっっっっっと続くんです。しかもコロナ禍のようにみんなで我慢するわけでなく自分だけが。

 

「それを乗り越えたら良くなるのでは」というのはよくある意見ですがそれは一体何年後なのか。何年か経ってじゃあ薬を変えてみましょうとなったらまた最初からのスタートです。その上医者ガチャもあります。その間もただぼーっとしていれば良いわけではなく生活を送らなければならない。ただ毎日息を吸い吐くことの困難さがいかほどなのか。

そうなると例え躁鬱に振り回されることになっても全てを感じて生きていたいと思う。苦しくても、どちらにせよ苦しいので。薬を捨ててしまったダイアナの気持ちが痛いほどよく分かりました。

劇中でドクター・マッデンも言っていましたが心理療法薬物療法は同時にやるから効果が出る。心理療法の方が圧倒的に時間もお金もかかるので日本できちんと治療を受けられる人がどれくらい居るのかは分かりませんが。

 

中盤になってダイアナは自殺を図ります。このあたりになると何故そうまでしてダイアナは生きていなければならないのだろうという気持ちになりました。この「救いのなさ・終わりのなさ」があまりにもリアル。

ダイアナが“全てを分かった人”になった時はああなるほどと納得してしまったのですが、救えないんですよ。もう何も。誰も。

この救いの無さを思うと死というのは一つの救いであると思うのです。終わらせることでしか始められないこともある。おめおめと生きてしまっている管理人が言うのも烏滸がましい話ですけどね。

 

 

ダイアナ(妻)とダン(夫)

ダイアナとダンの関係が想像していたよりも遥かに穏やかでかなり意外でした。もっと精神的肉体的に暴力があったり、荒んだ状況になるとばかり。まぁダンはダイアナを理解しようとはしないのでダイアナにとってある意味で暴力的ではあります。

ダンはダイアナに「君を支えているのは俺だ、俺を見てくれ、俺は君の味方だ」と繰り返し説くので本心ではそんなことは思っていないしラストは裏切るんだろうなと思っていたのですが最後までそんなことは無かったですね。

治療を継続して行うことが果たして良いことなのかどうかは置いておくにしても治療費の捻出や病院までの送迎があるダイアナは恵まれていると言って良いでしょう。鬱症状の時はまず通院することが難しいですし、薬漬けもお金が無いとできませんからね。それを「愛」と呼ぶかどうかは管理人には分かりませんが。

 

ダンに対して不信感があったのは発言の中心が全部「俺」だからなんですよね。ダンはダイアナを病院に連れて行きはするものの治療に同席はしませんし、ダンはダイアナに早く元気になって貰って一刻も早く自分を支えて欲しいのだと感じました。

ラストでダンにもゲイブが見えるようになるのですが、管理人はずっと見えていたのに見えないフリをしていたのだと考えています。そう考えると一刻も早く支えて欲しいと思うダンの気持ちも分かります。“傷”は自覚するところからでしか癒すことができない。ついでに言えば“傷”は他人には癒せません。

夫婦共に傷ついて立ち直れずにいる。頼れる人はおらず医療では治らない。どうすれば良いのか。八方ふさがりのこの状況がただただ現実。

 

 

ダイアナ(母)とゲイブ(息子)

前知識を一切入れない状態で観劇へ向かったのですがゲイブが存在しないとバラすタイミングが絶妙だと思いました。

初めてダイアナとゲイブが顔を合わせる時、二人の関係は良好ではないように思える。それがまた良かった。ヘンリーが家に来るあたりで露骨に“居ない”ことを強調するのですぐに分かりますが、それまでは全然疑っていませんでした。

こういうタネがあるタイプって観客はとっくに気が付いているのにズルズルと意味深に引っ張って大仰にネタばらしをして白けるっていうのが良くあると思うのですが、おや?と思ってからバラすまでのスピード感が好みでした。

 

ゲイブの話はいったん置いておいて甲斐翔真の話をさせていただきたいのですが、甲斐翔真をゲイブ役にキャスティングした人天才なのかよ。序盤、こんなに普通の青年を演じる甲斐さん初めて観るな~なんて思っていたのですがとんでもないよ!ありがとうな!

管理人の中で甲斐さんって凄く好青年というか王道の主人公みたいな印象があって。でもパラドとかライトとかゲイブとか複雑な役をされるから、闇落ちした主人公を見ている気持ちになるというか、そういうところが凄く好きでして…

いや闇落ちというのも少しニュアンスが違うのですが。甲斐さんは闇落ちしても闇に飲み込まれずに自身が闇になる・闇を操るというイメージがあります。“甲斐さんが居る側が正義”。強い。陰鬱さが無い。これからのご活躍も益々楽しみですね…

 

と話を戻し、ゲイブの代表曲ともいえる『I'm Alive』。日本人の感性で「私は生きている」という曲を作ろうと思ったらドえらい念のこもったナンバーになりそうですがあの軽快さが良いですよね。曲中のゲイブの動きも言葉にできないほど好きです。

あの軽やかで獰猛な動きを何と表したら良いのか……海宝ゲイブをチーターと表している方がいて心底納得したのですが(背筋の動きとかしなやかさとか観ていないけど分かる)、そう考えると甲斐ゲイブはクロジャガーでしょうか。ゲイブの動きには動物的な雰囲気を感じますよね。

 

甲斐ゲイブって性質的にはパラド(エグゼイド)に似ていると思うんですよ。でもパラドほど強い自我があるようには見えなかった。あくまでもダイアナの一部という位置づけだからかな。執着心はあるけれどそこに「痛み」はあまり無いというか…「僕を見て」という強い思いがある一方で子供が悪戯をしているような軽い雰囲気もあるんです。自身が消えることへの恐怖は特に持っていないように思います。

万能感はあるけれど干渉できる部分は凄く少なく、けれど強力で。まさに「悪夢」のような。彼は一体なんなんでしょうね?作品としては“傷”の具現化と呼べるのでしょうが…生きているってなんだ…?

 

 

ダイアナ(母)とナタリー(娘)

この二人の関係は呆れるほどリアルでした。親の精神が不安定だと子の精神も不安定になるものです。ダンがナタリーに「お母さんを支えてあげよう」と言うことのグロテスクさが本当にリアル。

母を支えるのが子の役目で、では子のことは誰が支えてくれるのか?父は母が一番で、時点で自分?ゲイブ?いつもナタリーは一番最後。まるで透明人間になったよう。

でもそんなことを大声で泣き喚くほど幼くも愚かでも無い、でも飲みこめない。そんなナタリーの辛さ…

 

後半でダイアナが少し自分の“傷”と向き合うことができるようになった時、ナタリーへの歩み寄りがあるのですがナタリーは「信じない」って言うんです。

これ酷いって思った方います?管理人は思いませんでした。心底ナタリーに君は正しいと言いたくなった。ナタリーは何回ダイアナを許してきたんでしょうね。何万回期待をして裏切られてでも嫌いになれなくて、何万回殺されてきたんでしょう。

最終的には「普通じゃなくて良い、普通の隣で良い」というところに落ち着きますが、これがナタリーにとって幸福なのかどうかは分かりません。というのもダイアナが死ぬことはナタリーにとっても一つの救いになり得ると思うからです。

自分を愛するべき人が自分を愛してくれない苦しみよりも、自分を愛する人はそもそも居ないのだという苦しみの方が優しい場合があります。だから死ぬ以外でも失踪とか、本当にもう手が届かないところへ行ってしまうというのはナタリーの救いになると思うのです。未だダイアナがナタリーに干渉できるところに居るのは果たして良いことなのか……。そして次はダンの番で。ナタリーはまた親を支えなければならないのかな。一刻も早く家を出て欲しい。

 

そして仮に家を出たとしてもそれで終わりではないのが世代間連鎖の怖いところです。ダイアナがその母と性質が似ていたようにナタリーもダイアナと似ている。そこは逃れられないんですよね。勿論同じになるという確証はありませんが同じにならないという確証もない。

ナタリーはヘンリーと恋人関係にありそれを拠り所としている。自分の足で立つことができない人生の恐ろしさは言わずもがなです。そんな不安定な人生になってしまわぬよう、ナタリーが成長することを祈りますが…。リアルなら全部が全部ダメとは言いませんが抜け出すことは容易ではありません。抜け出せないまま、もがいたまま生きていくしかない。

 

そういえばヘンリーも絶対途中で裏切るか更なる地獄にナタリーを突き落とすんだろうなと思っていたのですがそんなことは無かったですね?

やはりフィクションの方がリアルよりは優しいというかなんというか……。辛い時に支えてくれる存在が現れる・傍にいるというのは幸せに生きてきた人間の発想だと思ってしまいました。物語として救いがあるのは大賛成ですけどね。管理人は捻くれているので幸福を予感するラストに苦い気持ちもありますが、演目としてさわやかな終わり方をしたのは良かったと思います。観劇後はすがすがしい気持ちになりました。

 

 

終わりに

良い演目でした。

開幕前に「人を選ぶ演目だ」と言われているのを見聞きしましたが特別そんなことはないんじゃないかと思います。

何故この演目がチケ難になるのか、と言われると確かにと言わざるを得ないのですが笑、そこは役者さんへの期待と信頼の賜物でしょうね。良い役者さんたちのおかげで良い演目に出会えました。

今回観劇が叶わなかった方も沢山いると思うのでぜひ再演してほしいですね。